旭川市立啓明小学校の職員室
懐かしい旭川市立啓明小学校の記憶を共有するページです。 旭川市立啓明小学校の職員室での懐かしい想い出を書き残してみませんか。懐かしい思い出を是非皆さんと共有してください。例えば職員室にあった不思議なものや風景、先生に怒られたり、言われた今でも忘れられないことなど教えてください。例)七不思議等のうわさ話やはありましたか?
普通生徒は入らないところ。今思うと生徒に触らせたくないからあそこにあったんだ、と思うものは?
普段はあまり行く機会がない職員室。どんな時にいきましたか?
旭川市立啓明小学校
職員室の思い出
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例)たばこ臭かった。 |
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その他の思い出ページものぞいてみてください。
懐かしの光景・思い出
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室うわさ話・エピソード
あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録想いを伝える
昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白他の小学校の職員室での記憶
職員室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 職員室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。職員室: | 職員室は怖い先生がいた時は入りたくなかったが、 転勤したとたん、たくさん入った笑 |
職員室: | 悪さをして何回も呼び出された |
職員室: | なんか小学校1年生の時に 手品をいてくれる男の先生いた。 それくらいしかいい思い出がない。 |
職員室: | 実は先生達の机の中はお菓子やらエナジードリンクやら色々娯楽があるという噂 |
職員室: | 好きな俳優の写真やカレンダーを職員室の机に飾りまくってる先生がいて驚きました。その俳優は結婚したので先生悲しんでるかな? |
職員室: | 冬はストーブフル稼働で、教師の机には灰皿がありタバコ吸ってたね。今じゃ考えられないけど。 |
職員室: | 2階に職員室があり、校庭につながるらせん階段を降りて、朝礼に参加していた。 |
職員室: | 水泳部の顧問の先祖は人々を斬り捨てていた武者だった。 |
職員室: | 人を平気で傷つける教員がいる。 |
職員室: | 入る時の緊張感❗ |
小学校での他の場所の記憶
他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。伝説: | 当時在学中、日曜日になると仲間達と集まり小学校の地下防空壕を探検しました。 |
トイレ: | 壁に細かい穴がありました。 |
職員室: | あそこだけちょー涼しかった |
怪談: | 記憶が正しければあそこは元豚小屋で、豚の霊がでるとか。あとは夜パソコン室のパソコンが勝手に電源入ってると当時いた先生が話していた |
プール: | かぶとむし |
恋: | かわちぃ |
卒業式: | 先生、最期の最期で泣いていたからこっちも泣きそうになりました。 |
教室: | 冷房はなし。暖房は石炭ストーブ。窓の外は森永ホモ牛乳。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
保健室: | 手拭いは必ず持って行く事になっていました。掃除の時かぶったりするので。忘れると忘れ物としてカウントされました。 |
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