積丹町立幌武意小学校の教室
懐かしい積丹町立幌武意小学校の記憶を共有するページです。 積丹町立幌武意小学校の教室での今でも忘れられない思い出をつづってください古き良き思い出をぜび皆さんと共有してください。例えば教室にあった不思議なものや風景など教えてください。積丹町立幌武意小学校
教室の思い出
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例)あのでっかい三角定規結局使ったの見たことない。 |
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その他の思い出ページものぞいてみてください。
懐かしの光景・思い出
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室うわさ話・エピソード
あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
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昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白他の小学校の教室での記憶
教室での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 教室での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。教室: | 給食室までの長かった渡り廊下 |
教室: | 2年生の教室の前にはお手玉やめんこなど遊べるのがいっぱいあった。 よく休み時間おままごとしたな〜 |
教室: | タメルームがあったが使途不明。 |
教室: | 木造モルタル造り2階建校舎の教室の運動場側の窓の上部には紐を引くことによって開閉が出来る回転窓がありました。 |
教室: | 放送室が一番思い出があります。また会いたいな…。 |
教室: | 確か今って3、4年らが少人数制にして分けて使ってるらしいで |
教室: | 油引きした後の匂いが懐かしくおもいだされます。 |
教室: | 校舎 |
教室: | 覚えています。途中から給食になり脱脂粉乳が苦手でした。 秋には焚き付け用のスギッパを良く取りに行っていました。 |
教室: | 昭和26年入学時の思い出。1クラス65名程、6クラス。教室不足で午前授業と午後授業に分かれていました。担任は島袋先生(女性)でした。 |
小学校での他の場所の記憶
他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。体育館: | あつすぎる |
給食: | 四年生の時、他区から転校してきましたが○○のムニエルとかグラタン等おしゃれで美味しいメニューばかりで給食が楽しみになりました |
屋上: | 運動会の前は、屋上でよく練習してました。 |
トイレ: | 夜におばけがでる |
プール: | プールは小学校には無かったので松本(ひろみ)の海岸で海水浴しました。 松任町立プールに行った記憶もあります。帰校してからはよく小川の海岸に出て泳ぎました。 |
プール: | 去年、6年生のときにみんなでプール掃除をしたことが楽しかったです!!先生たちに怒られながらも、友達と水をかけあって遊びました(笑) |
校庭: | 校舎の裏に池があって、錦鯉やら魚が一杯居りました。その池に遠くからリールのついた竿でキャスティングして遊んだところ…先生に見つかり、次の日に朝礼で校長先生から、裏の池で釣りをしていた不とどき者がいた。と話しました。 |
卒業式: | バックに合奏隊(?)も居て、木琴で伴奏したのが思い出深いです。 |
職員室: | 小生現在80歳。父が校長をしていました。校長住宅は校舎の端につながっていました。従って住宅から教室には戸1枚で隣り合わせでした。 従って時々職員室に勝手に入り戸棚に置いてあった教材用の実験器具などを触ったりして遊んでいました。職員室から教室に向かう廊下のすぐ上に不気味な亀の甲羅がへばりつくように飾ってあったのを鮮明に記憶しています。校庭の脇には松の木が1列に4~5本植えられていました。ある日そこに馬と人と大きな注射器様のものとバケツが置かれていて何人かの人がいました。今思うと人工的にアレをしていたのです。住宅の玄関を出るとすぐ右手にポプラの木が1列に並んでいて風のざわめきに公害の影響のない葉がきらきらと輝いていました。 ポプラの木の上は一面が高台になっていて冬はその雪原でスキーで遊びました。 さて話題を転じて校庭の左奥には奉安殿があり正面に位置する校門の出口には芝を背負って本を読みながら歩く二宮金次郎の銅像がたっていました。 そこを出ると当然舗装の無い雨や雪が降ると泥んこ道に変貌する坂道がありました。道を挟んで向かいにある農場に小屋があり中にはもはや動かない赤い塗装の農機具(プラオだと思う)が鎮座していて乗って遊びました。前出の道路を下ると左手に野X村さんの家がありそこのつXるちゃんとは遊び友達でした。 更に道を下って少し左に曲がった右上にお寺があり住職さん(X田さん?)は当然村の名士でもありました。 娘さんの歌X子さん?は師範学校に合格して我が父が喜んでいました。父の自転車の前に乗せられて細い山道をがたがた揺られて尻が痛いのを我慢しているとやがて右下に豊浦の町並みが見えてきて痛いのはもう少しの我慢と思ったものです。 当時は戦争末期のころでときどき神社の前庭から 「XXX君」と書かれた白いたすきをかけた出征兵士が人々に見守られながら歩いてくる姿を見たこともありました。 豊浦の駅からどこの戦地に向かったのでしょうか。 そして昭和20年6月我が家族は思い出の花和を後に村の人が用意してくれた馬車に布団を敷いてそこに座って次の赴任地の樽前を目指して豊浦駅に向かったのでした。 |
音楽室: | 歌を歌う時はピアノの周りに集まって歌ってました。 |
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