苫前町立豊浦小学校の卒業式
懐かしい苫前町立豊浦小学校の記憶を共有するページです。 苫前町立豊浦小学校楽しかった学校の最後の日皆さんはどんな時間w過ごしたのでしょうか。親友との別れやライバルとの未来の約束、お世話になった恩師への感謝の気持ちを伝えたり、淡い想いを伝えられずに遠くで見守った片思いの人との思い出。あたは失敗した話や卒業式あるあるなどをなんでもいいので皆さんで卒業式の楽しい思い出を共有しましょう。苫前町立豊浦小学校
卒業式の思い出
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例)卒業式に親友たちと別れるのが名残惜しかったです。 |
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その他の思い出ページものぞいてみてください。
懐かしの光景・思い出
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上 理科室 飼育小屋 図工室うわさ話・エピソード
あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
恋 給食 運動会 文化祭 入学式 卒業式 怪談 伝説 記録想いを伝える
昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白他の小学校の卒業式での記憶
卒業式での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 卒業式での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。卒業式: | 卒業式に引っ越した友達が来てくれました |
卒業式: | 悲しかった |
卒業式: | さよなら友よを歌ったような、歌えなかったような |
卒業式: | いじめられて病んで卒業式出られなかった |
卒業式: | 出たかったなぁ。。。 |
卒業式: | 卒業式の歌がとても好きでした。ネットで調べて曲名知りました、巣立ちの歌。いざさらばーさらばー |
卒業式: | y.nが卒業して悲しい |
卒業式: | 卒業式もっと友達とおしゃべりしたかったのに、親が帰るぞと言って私を無理やり帰らさせたので残念でした |
卒業式: | 2014年140周年記念式典と卒業式は忘れられない。 あと3.4年もしないうちに150周年。 時ははやし |
卒業式: | 先生とわかれるのが、すごく悲しかった |
小学校での他の場所の記憶
他の小学校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。校庭: | 中庭の池のアホほどあったホテイアオイと誰が作ったか解らない多数のトーテムポール |
校庭: | 南小学校は元競馬場? |
教室: | 板張りの床で、板の隙間に嵌まっている「鉛筆の芯集め」が何故かブームでした。 集めるためのアイテムは「牛乳瓶オープナー(針)」。 今考えると汚いですね(^_^;) |
給食: | 米粉パンが美味しくて好きだった |
飼育小屋: | やぎを飼っていた 名前は「メリーさん」 |
校庭: | 小石を拾うたのは運動会が近かったからです。朝の全校朝礼の後一斉に石拾いをやりました。当時は運動靴ではなく足袋を履きました。運動会の終わりには足袋も痛んできまして一日で使い捨て。足が痛くなるのを防ぐために石を拾いました。 イイネ! いいね (2017/02/22 16:05:21:s26 政五郎 |
怪談: | 中にはだれもいない。だが音が聞こえている。なぜだろう。一瞬息が止まり助けを呼ぼうとした。その時はもう手遅れだった。部屋の中に引き摺り込まれた。どう足掻いてももう出れない。大きな声を出しても聞こえない。絶望に陥った。だがピアノは音を出し演奏している。ピアノの近くに行って、もうやめて!と叫んだするとピアノは・・・ツズク |
飼育小屋: | 飼育小屋の前に笹井富士がありました まだあるのかな? |
教室: | そういえば木造校舎だったなあ |
教室: | 昭和28年ごろで5年生だったと思うが、担任はお姉さんのような美しい溝口先生だった。 教室は8人程度の班に分けていた。当時教室は50人弱程度いたから6班程度があったと思う。国語の本を班ごとに読ませ、読み間違ったら次の人が読むというやり方で、各班にどのくらいの行を読むことが出来たかを競争をさせ、一番負けた班がその日の教室掃除を担当することになっていた。当時花菱アチャコや横山エンタツという喜劇スターがいてよくアジャーパーなんて言葉がはやっていた。 読み間違えるとアチャー!やアジャーパー!なんて言って他の人を笑わせたりしたものです。このころ今ではフウテンの寅さんの言葉で有名だが、女子には俺をー君ではなく、オイチャンと呼べと言って笑わせていた人もいた。また先甲府に重病の女の子が手術を受けるお金が足りないという新聞記事があり、先生の提案があったと思うが、皆で話し合って、その子を応援するために新聞紙などで袋を作ってお店に行ってそれを買ってもらったり、遠くの山に行って柏の葉っぱを取ってきて店に買ってもらったり、小遣いを出し合ったりしてお金を作り、甲府送ったという思い出があります。当時これはこの組にいた女子にお父さんが新聞記者をしていた人もいたためか山梨の新聞にも載り、皆で喜びあった記憶があります。それは、それは、溝口先生のお陰であるのですが、まとまりのある素晴らしいクラスでした。先生も皆様も今なお、お元気であればよいのですが。 |
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