七尾学園益田東高等学校の入学式
懐かしい七尾学園益田東高等学校の記憶を共有するページです。 七尾学園益田東高等学校新生活の出発で胸をときめかせていた入学式。そこで会ったの現在の親友や恩師、楽しい思い出の始まりで得た忘れられない出来事、失敗した話や入学式あるあるなどを教えてください。皆さんで入学式の楽しい思い出を共有しましょう。七尾学園益田東高等学校
入学式の思い出
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例)入学式に遅刻してしまい大変でした。 |
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その他の思い出ページものぞいてみてください。
懐かしの光景・思い出
学校の特定の場所について昔の懐かしい光景やそこでの思い出話を主にするページです。
体育館 教室 校庭 職員室 保健室 音楽室 図書室 プール トイレ 下駄箱 屋上うわさ話・エピソード
あるテーマについて学校時代の想い出やエピソードを共有するページです。
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昔言えなかった想いを伝えるページです。伝わるとは限りませんが皆さんの想いを吐露してください。
感謝 謝罪 告白他の高校の入学式での記憶
入学式での記憶にはみなさんはこんなことを書き込んでいます。 入学式での一生懸命頑張ったり、楽しかったり、がんばったり、ときには悲しかった思い出など、みなさんの記憶をつづってみてください。入学式: | 1993年4月 |
入学式: | 入学式は人が凄く多くて、びっくりしました。また、校長先生?の話が長すぎて眠くなりました |
入学式: | 丹尾真斗という架空の生徒が出るといううわさがありました。 |
入学式: | 入学式に遅刻した実績あり |
入学式: | 高校1年生、初めて花輪線の機関車が引く列車に乗り大舘駅で花岡線のジーゼル列車に乗り換えやっと、たどり着いた学校。クラスに入ると授業開始前にドカドカと先輩(2年生)がクラスになだれ込み「お前ら、返事が足りないんだよ。」とまず焼き入れ、皆は「シーン」ただただ下を向いているだけ、やがて朝礼の時1年生はいち早く「体育館」に集合。そこで先輩から、校歌を教示されるが半端な歌い方ではなかった、後ろに反り返り体育館の天井を見ながら大声で歌う。1週間は続いたかな・・・今思えばシゴキでなく早く花岡工業高校(大舘工業高校の前進)の男たれの先輩たちのはっぱだったかもしれない。体育館は「妙に天井がたかかった。」檀上には「番長高谷氏」が学ランに首から茶色のぶっとい組紐をぶら下げ、「俺は男だ。」を誇示していた。体育館は「男」を気づかせる場所だった。そして板敷の廊下を「番長」が足駄(下駄)を履いてお伴を引き連れながら体育館に入ってくる青春の時代であった。男臭さのプンプンする「花校」が懐かしい。今の時代のような陰湿なイジメや派手さのない筋の通った学校で勉強出来た青春だった。先生もみんな筋が通っていた。白は白・黒は黒・・・灰色はない。強烈な個性の集まり「花校」のような学校が復活すればいいな。と思う昨今だ。 |
入学式: | 入学式の直後だったか、その1日ぐらい後だったか、校歌を教える先生がいた。その先生が私の歌った後について歌ってくださいと言ったら、ある学生が、あれでもわたしやうまいつもりだよ、なんてかなり大きい声で言ったらそれが先生に聞こえ、すごい顔でにらまれていた事思い出す。この学生とてもひょうきんな人で、当時通学は電気機関車で引っ張る電車だったが、手動のブレーキを操作し、その車両の近くで大きな音響を発生させ、慌てて元に戻してその周りの学生たち皆で大笑いしたこともある。この人今も周りの人を笑わせ楽しませているのであろうか。 |
入学式: | 入学式では担任から1人1人名前を呼ばれて立ち、最後のクラスの出席番号の最後の女子(クラスによっては男子)まで待ち、それが終わると代表の先生の声で「以上、⚪⚪⚪⚪以下⚪⚪⚪名の入学を許可します。」と言われて、入学を認められる。 |
入学式: | 小学校で好きになり、同じ大聖寺高校に入学できました。 |
入学式: | 入学式で担任の先生に名前を呼ばれたときは『はい』と返事をする。 |
入学式: | 新設校の為、合格発表は当時の大楠高校が会場でした。入学式当日、初めて三崎口駅に降り立った記憶。駅に近づくにつれ、京急の車窓からの景色がどんどんローカルになるのに慄きました。今は開発が進み、高校周辺も賑やかになりましたね。 |
高校での他の場所の記憶
他の高校ではこんなことを書き込んでいます。 例え他愛のないことやちょっとした思い出でも、その場所を訪れた先輩や後輩等、だれかがそれを見て懐かしい気持ちを思い出し、あったかい気持ちになれるかもしれません。みなさんの記憶をつづってみてください。卒業式: | 卒業式の後、校庭で車、バイクで砂煙立てた奴誰だっけ? |
音楽室: | 21年前に卒業。音楽室では大好きな音楽教師に好かれたく友達がピアノ練習したいと口実作り、二時間ぐらい放課後いりびたってたな。この書き込みした日にちがちょうど、音楽教師の誕生日。元気にしてるかな? |
プール: | 屋内プールでした。 |
プール: | 栄のプールは潜水が可能です。授業で最終部の先生の大人気の無さが顕著に目立ちます笑 |
プール: | 水泳部でしたから、春の掃除から始まって、9月まで練習していました! |
伝説: | 葺合高等学校は普通科のほかに英語科(現・国際課)もあり、英語の勉強に熱心な高校として地元で知られている。自分が中3の2月に英語科に合格して中学を卒業するまでの間に、中3の時の英語の先生から「葺合高校に藤本先生という、目の不自由な英語の先生がおられる。」という話を聞いた。高1の2学期に英語の授業で、その藤本先生とちょっとだけ接する機会があった。当時まだ26歳の若い先生で、生まれつきほとんど目が見えず高1の時、16歳で完全に見えなくなったと言っておられた。翌年私が高2の11月に講堂で藤本先生の講演会があり、この時にも改めて先生のこれまでの経歴やエピソードなどを聞いて、いろいろと感動した。講演の後、2年生全員に「藤本先生の話を聞いた感想を書く」という課題が出され、1クラスから2人ずつ優秀な感想文が選ばれて印刷されて学年全員に配布されることになり、うちのクラスから私の感想文が、その中の1人に選ばれた。その後私が卒業して神戸を離れ、故郷の関東に帰って大学4年生の時、新聞のテレビ欄で、NHKで「届け、盲目の教師のメッセージ・神戸市」というのを見て「これは葺合高校の藤本先生の事に違いない」と思った。そしてテレビを見たらその通りだった。自分が卒業した葺合高校の校舎や、32歳になった藤本先生の姿をテレビで見て、思わず懐かしくてうれしくなった。それから8年後には神戸新聞でも「盲目の英語教師」として40歳の藤本先生の事が紹介され、本当に藤本先生は素晴らしい方だな、と思った。先生の「人は何歳から何を始めても遅くない。人間は変われるよ。壁や限界は、自分で作っているだけなんだよ。」という言葉は本当に素晴らしいと思った。盲目にもかかわらず高校の英語教師として頑張っておられる藤本先生の事は、テレビや新聞でも取り上げられました。本当に立派な先生ですよね! |
教室: | 当時の特進科の教室は、新校舎内の冷暖房完備という恵まれた環境とは程遠く、教卓の横の1つの丸型石油ストーブしかなかった。その教室での3年間も、授業中に遊んでいるか・仲間と雑談に興じているか・模擬試験を受けているかの3つぐらいしかした記憶がない。しかし今にして思えば厳冬の中にあって、休み時間には暖を取るべく集まり昼近くになると周りに全員の弁当が並んでいた“1つの石油ストーブ”の存在を通して、まだまだヤンチャだった頃にしていたことの数々を時おり慈しむ様に思い出す。 |
怪談: | 体育館のグラウンド側の部室を出た所から見る夕焼けがキレイだった |
校庭: | 体育でよく走らされた!テニス部の女子が練習してるのをよく見かけた! |
トイレ: | 鏡なかった |
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